父の最期を振り返る
父が亡くなりました
僕の父親は2019年7月12日に亡くなりました。 68歳でした。
8月25日に四十九日の法要も無事に終わったため、僕の中でひとつ区切りができました。
今回は僕が今感じていることを忘れたくないと思い、久しぶりにブログを書くことにしました。 久しぶりの更新がこんな重いネタで、せっかく読んでくれる方には申し訳ない気持ちです。
がんの発見
父は会社で実施している定期健康診断で再検査の項目がありましたが、母の話によると2〜3年は再検査をせずに放置していたようです。 そして約3年前の2016年のある時に異変を感じ、病院に検査に行きました。
その結果、大腸がんが見つかりました。
検査の結果、がんの進行程度を表す「病期(ステージ)」は「Ⅳ」でした。
つまり、末期がんです。
がんが発見されてからの5年相対生存率のデータを見ると、ステージⅣのがんの場合は20.2%とのことです。 父はあと5年生きることができない可能性が高い。 それを事実として受け止めるのには時間が掛かりましたが、受け入れるしかありませんでした。
天国と地獄
父が検査結果を聞きに病院に行った時、母も同席していました。
母は夫が末期がんであるという宣告を受けたこの日、もうひとつの連絡を受けていました。
それは、初孫が出来たという連絡でした。
僕には3つ上の姉がいます。 姉夫婦が結婚したのは随分前ですが、今まで子供はいませんでした。 僕も未婚のため、当然ながら両親に初孫を見せてあげる予定はありませんでした。
その姉夫婦に待望の子供ができたのです。
なんと嬉しいニュースなんでしょう!
これが父が末期がんという宣告を受けた日でなければ…
この時の母の気持ちはどんな心境だったのでしょうか。 約半世紀寄り添った夫が末期がんと宣告されるという地獄の知らせと、愛する娘が初めての子供を授かったという天国の知らせ。 想像もできないくらい心がぐちゃぐちゃだったのではないでしょうか。
その日、母は僕に連絡をしてきました。
「大事な話があるので家に帰ってきて欲しい」
僕の実家は都内にあり1時間程度で帰ることができましたが、内容を知らない僕は連絡をもらった週末に実家に帰ることにしました。
実家で母から今回の件を聞いた時、僕はすぐには状況が飲み込めませんでした。
父が末期がん。
いずれそんな日が来るとは想像していましたが、まさかこんな早いとは思いませんでした。
そして父が末期がんであると教えてもらった日に、母とある約束をしました。
「お姉ちゃんの子供が生まれるまでは、お父さんのことはお姉ちゃんには黙っていようね」
母は姉の精神面を心配し、生まれてくる子供に悪影響が出ないようにしたかったのです。
そして2017年3月、無事に姉の子供が生まれるまでの間、父のがんについて秘密を貫きました。
両親にとって初孫。 僕にとっても初めての甥っ子です。 これがまためちゃくちゃ可愛いんですよ!!!!
・・・うん、この話はまた別の機会にでも。
父の闘病生活
父のがんが見つかった2016年7月から闘病生活が始まったのですが、父に寄り添っていたのは母のため、僕は定期的に母から父の容態や治療内容などを聞いて母の気持ちが落ち込まないように励ますくらいしかできませんでした。
2017年3月に初孫が生まれてからは姉夫婦が実家によく遊びに行くようになり、初孫を相手にすると普段は頑固親父な父でしたがメロメロになってましたw
今思えば、孫が出来たことで父の生存期間は伸びたのではないかと思っています。
また、姉夫婦が「みてね」というアプリを使って子供の様子を共有してくれたことも、父に対して良い影響を与えてくれたと思っています。
「みてね」を提供してくれているmixiに大感謝です。
父の闘病生活は約3年で幕を閉じるのですが、ゆるやかに病気の進行が進み、投与する薬が強くなり、副作用があちこち出ていましたが、それでも容態が変わる2019年5月までは「70歳まで生きられるかも」と心のどこかで希望を抱いていました。
ですが現実はそうもいかず、最後の3ヶ月は怒涛の日々でした。
父が亡くなる3ヶ月前、2019年5月にきっかけがありました。
5月のある日、父に黄疸(おうだん)の症状が出ました。
母は黄疸の症状を見て危険を察知し、すぐに病院に行きました。
病院に行くと、診察が終わってすぐに入院することになりました。
ラストスパート
2019年5月、父が入院した5月は僕の誕生月です。 30代半ばになっても誕生日は嬉しいと感じるのですが、今回はそんな気持ちになれませんでした。
父が急遽入院した時に母が医師から容態について説明を受けていました。
この時点で医師からは「この夏は超えられないだろう」という説明がありました。
いつどうなるか分からない状態のため、母からはすぐに病院に来て欲しいと連絡を受けました。
父が入院して以降、僕はなるべく父に会うために病院に行きました。
当初、父は2週間の入院予定でしたが、状態が良くないため結果的に約4週間入院しました。
この時、母は大部屋での入院を嫌い、費用が高くても個室の病室に父を移しました。
母が個室にしてくれたおかげで、姉夫婦が子供を連れて病室に行きやすくなったり、個室用のトイレがあったり、他に患者さんがいないので騒音に悩まされない、などのかなりストレスフリーで過ごせたようです。
ちなみに今回利用した個室は1泊12,000円らしいので、個室代だけで入院期間中の費用は40万円近く掛かったそうです。
これは高い買い物でしょうか?それとも安い買い物でしょうか?
解釈は個々人の自由ですが、実態を知っておくと何かあった時の備えができるかもしれませんね。
・・・
当初の予定よりも長く入院していた父は、2019年6月22日に退院することになりました。
この退院は、医師から「もう治療する手段はありませんので、ご本人の好きなようにさせてあげてください」という話から始まりました。
父の希望を尊重し、残りの生活は実家で過ごすことになりました。
今回初めて知ったのですが、区に申請をするといろいろとサポートをしてくれるようで、可動式のベッドを無料で借りることができました。
こういう時、公的機関からのサポートがあるのは非常にありがたいです。
・・・
実家に戻ってからの3週間はあっという間でした。
僕は毎週父に会いに実家に帰りました。
驚くことに、毎週父に会うたび、どんどん衰弱しているのが分かりました。
生前の父に最後に会ったのは亡くなる2日前の7月10日です。
この時の父は、呼吸が荒く、話すことができず、眼は大きく開いた状態で天井を見つめていました。
手や足は頻繁にあちこちに動かしており一箇所に留まるのが難しいようでした。
しかし、意識はありました。
僕が話しかけると頷いて返事をしてくれました。
そんな父を見て、僕は涙が止まりませんでした。
僕は、実家のベッドに横たわる父のすぐそばで泣いていました。
僕は父の手を握り「こういう時に何を言ったらいいのか分からないんだ。ごめんね。」と言いながら泣いていました。
僕の言葉が父に届いたのかはわかりません。
顔を見ていなかったので、頷いていたかどうかもわかりません。
それが、僕が父と二人だけで過ごした最後の時間でした。
時間にするとわずか1〜2分だと思います。
その約34時間後、父は息を引き取りました。
父から得たもの
父が末期がんになった時から覚悟はしていました。
人はいずれ誰しもが死にます。
交通事故などに巻き込まれてある日突然大切な人が亡くなる場合もありますが、僕はゆるやかに覚悟を決めて父の最期を迎えられたことは幸せなことだったのではないかと思っています。
時間は有限です。
父の命が残り少ないとわかった時、父と会う機会を増やしました。 話す機会を増やしました。
それでも、僕の人生を振り返った時、父と会話をした量は圧倒的に少ないと思っています。
父は口数が少なく、いわゆる頑固親父タイプです。
仕事人間で家庭のことは母に任せることが多かったと思います。
そのため、僕は父から何かをしてもらった記憶がほとんどありません。
僕が大学の進学で迷っている時も、父は直接僕に何かを言うのではなく、母経由で僕に伝言を伝えてきました。
そんな父のため、子供の頃は構ってくれない人という認識が強かったです。
でも今ならわかります。
父は、僕にほとんど干渉せず、僕のやりたいことを好きにやらせてくれる人でした。
塾に行きたいと言った時も、大学進学で悩んでる時も、就活で焦っている時も、父は口を出してきませんでした。
正確には母に対して何か言っていたのかもしれませんが、最終的に僕に対しては直接何かを言ってきた記憶はありません。
僕は両親から制限を掛けられることなく、自分の進みたい道を進ませてもらいました。
これこそ、僕が父から得た最大の学びです。
口うるさく干渉せず、本人の意思を尊重する。 子供に金銭面での心配を掛けさせない。
あぁ、僕はとても幸せな家庭に生まれたんですね。
おまけ
僕の人生の目標に「70歳まで生きる」というのが加わりました。
僕は今35歳のため、ちょうどもう一回人生やり直すだけの時間を過ごすのが目標です。
70歳から先は人生のアディショナルタイムということで、生きていたらラッキーくらいに考えて過ごそうかと思います。
ここまでの長文を読んで頂きありがとうございました。
特に何も得るものが無くて大変恐縮ですが、今回のブログはこれで終わりたいと思います。
皆さん、ご両親は大切にね☆